すいません、ビニールありますか。

常ならぬ日々のこと。見聞きしたあれやこれやについて。平成生まれ。男性。東京都在住。フリーアルバイター。やや乱視ぎみ。

8/10

 今日、となり合わせたひとは夏風邪をひいていた。

 彼女はひっきりなしに咳き込み、くしゃみをし、鼻をかんでいた。けほっけほっ、くしゅん、ちーん。そんなふうではなくて「げほっげほ。はああっくっしょい。あああ、ずずずずず」といった感じで、私はそれに好感をもった。

 つらそうですね。大丈夫?

 私はそんなふうに声をかけようかと思った。事実、彼女はほんとうに辛そうだったし、見かねた他の人達は次々に声をかけていた。

 私は、次彼女が咳をしたら、驚いたように顔をあげて、あたかも彼女の胸の内を完璧に察したかのような口ぶりで、だれよりも気の利いたことを言おうと考えていた。そうして、そのすばらしく気の利いたセリフを考えているうちに、咳は回数を重ね、通りがかりの人々はみな私を追い抜いて、病人にあっさりとしかるべき声をかけた。大丈夫?つらそうね?ついつい冷房をきかせすぎちゃうよね。お大事にね。

 昼休みが終わる頃には、彼女はすっかり一日一善の標的になっていた。彼女のほうも「はい。ありがとうございます」の定型文を貼りつけるのにどこかうんざりしている様子だった。私はとうとういたわりの言葉を口にしなかった。

 そこへ人気者のほうのNさんが猫のような足取りでふらふらーっとやってきた。彼は彼女に声をかけると、長々と楽しげにおしゃべりをしだした。

 私は驚愕した。これってやっぱりすごいことなんじゃないか?

 思い返せば、遡ってすこしまえ、地震が起きたとき、おおきく揺れる建物のなかで、ぼんやりと自分の頭のうえでぎしぎし音をたてて前後する天井から吊リ下げられた鉄の棒を見ていた私に、彼女は机の下から出てくるなり「あははは。やっぱNさんってめちゃくちゃ冷静」と言った。

 私はただ慌て方がわからないだけ。とっさに机のしたに隠れられるほうが、むしろ冷静である。彼女はさらにこうも言った。それは上司に巻き込まれての会話のいち幕。

 上司「ねえねえWさん(彼女の名前)、Nさんって部活なにやってたと思う?わたしはバスケだと思うんだけど」

 Wさん「あ、私もそう思います。バスケに一票」

 私「はずれでーす。でもなんか嬉しい、バスケ部っぽいって言われるの」

 これは本心だった。

 つまり、私は彼女のなかにいるイメージの私と実際の私が乖離してしまうことを恐れて、そうあるべき、そうありたいと願って仕立てた型抜きのなかに自分を押し詰めようと必死なのだ。これは対人関係において普遍的で、だから私は人付き合いが、とくに新しく出会った人と関係を築くことが苦痛なのであろう。当然である。その人と向き合う前に、まずその人のなかに潜む私自身の歪んだ鏡像と対峙しなくてはならないのだから。

 そういえば、これに関連して、すこしまえに考えていたことを思い出した。

 だれでも自分の胸の内で独り言をつぶやくことはあるだろうが、私はそれすらも演技がかっているということ。ようするに、とか、いわば、とか、つまるところ、とか、誰に説明するでもないくせにわざとらしく形式ばった迂遠な言い回しをして、なにかを言った気になり悦に浸っている。

 そうして立派な原稿を拵えたつもりが、いざスピーチの段になって壇上に立つとすべて白紙。まごつく。恥をかく(恥をかかされたような気になる。みじめな私)。そうしてありとあらゆるなにものかを憎む。悲劇のヒロイン。独白が始まる。哲学もどきが生まれる。

 このサイクルがぐるぐる頭のなかを回転して、そこから発生する電気信号に反応する、あるいは反応しまいとする身体の動きだけが表に出る。そいつにクローゼットから引っ張り出した衣装をあれこれ着せてやる。もうこうなってくると、自分でも何段構えで演技をしているのやら、まるでわからない。

 ウォールフラワー。いまのところはそれが与えられた役割らしい。けれども、だれが?